「子どものことは学校に任せる」学校依存度が極めて高い〝親と地域〟が、教師を疲弊させている【西岡正樹】
◾️迷惑行為をした子どもが通う中学校の生徒を全員出禁に!?
7月、相模原のファミリーレストランが○○中学校の生徒の入店を禁止した、というニュースが流れた。生徒たちが迷惑行為を繰り返し、店のスタッフにも危害が加わりそうな事態になったので、事の経緯を学校側に伝え、○○中学校の生徒を出禁にしたという。しかし、どうして学校なのだろうか。その記事を読んで最初に浮かんだ、私の疑問である。
たとえ、迷惑行為をした数人が○○中学校の制服を着て、迷惑行為を繰り返していたとしても、放課後のことであり一個人としての行動だったはずだ。それならば、なんとしても生徒たちから保護者の連絡先を聞き出し、生徒たちの保護者に、「お宅のお子さんは当店で迷惑行為を繰り返しています」と通告すべきだったのではないだろうか。それでも繰り返すようだったら、次の手段としては警察や学校への通報だろう。
人は「自覚」しなければ自分の行動を変えることはできない、と私は思っている。また「自覚」は自分事として感じる(実感した)時に初めて生じるものだし、その「実感」=「身体として感じること」を繰り返さなければ自覚は生まれない、というのが私の体験的な理解だ。
実際、担任した子ども(小学生)を見ていて思うのだが、「自覚」した子どもの言動は、より「自主的」「自立(自律)的」になり、それに伴って生じてくる自分の「責任」をしっかりと受け止めるようになってくる。また別の角度から子どもを見ると、意識的な言動(言語化できること)を繰り返している(これも実感に繋がる)子どもは、いつしか意識しなくても無意識に行動できるようになり、その繰り返しによって、自分を客観的に見る力がついてくるのだ。だから、自分がどのように行動すべきなのか、他者の力を借りなくても自覚的に行動するようになる。
とは言うものの、今子どもたちを取り巻く環境を見て思うことは、子どもたちに「自覚」を促す教育力が、「学校」「家庭」「地域」(店も含めて)にどれくらいあるのだろうか、ということだ。今回のように「店の中で迷惑行為をし、暴力的な言動をくりかえした」という個人的な行為を学校全体に広げても、「自分は迷惑行為をした」という自覚を当事者たち一人ひとりに促すことはけっしてできない。この店側が取った行為は、子どもたちの一人ひとりの当事者意識を薄めただけである。